Movie Review 1 ペパーミント・キャンディー

 

時間を遡ることで見えてくるもの

 

 日々総合診療科で診察をしていると、複雑な背景をもった患者と出会うことが多い。検査を繰り返し、様々な科を渡り歩き、それでも診断がつかない患者たちである。そのようにして総合診療科にたどり着いた患者たちは皆、何とかして診断名をつけてほしい、せめてこの苦痛を取り除いてほしいと切望している。

あらゆる生物医学的検査をやり尽くして私の前に現れたそのような患者に、同じような検査を繰り返すことはもはや意味がない。遠回りのようでも患者の背景を丹念に探り、答えを見つけてゆくしかない。そのために私たちは患者に語ってもらいヒントを引き出そうとする。そんなときに、たまたま観た映画が示唆を与えてくれることがある。韓国のイ・チャンドン監督による『ペパーミント・キャンディー』という映画がある。映画の構成上、長い引用になるが以下に取り上げてみたい。

ペパーミント・キャンディー

この映画が通常の映画と異なっているのは、冒頭に現在が映し出され、そこから時間の流れが逆戻りしていることである。物語は主人公が自殺をしようとするところから始まり、話は、3日前、5年前、10年前・・・とこの男の過去にさかのぼっていく。人生を線路に置き換え、それを逆走するようにある男の人生を振り返る構成である。

映画はいきなり冒頭から、ひどく打ちのめされ人生に絶望している主人公ヨンホの姿で始まる。それが何故なのか、もちろん観客にはさっぱり分からない。3三日前に彼は初恋の女性スニムの病床を見舞っているが、この女性とどんな経緯があったのかはもちろんのこと、その時見舞いに持って行ったペパーミント・キャンディーがどんな意味をもつのか、帰り際に右膝が痛んだのは何故なのかについても、観客には全く説明されていない。スニムの夫から、スニムが大事にしていたというカメラを手渡されるが、このカメラが何であるかも謎である。映画は5年前に遡り、ヨンホが事業をしていて騙されたことや、家庭が上手くいっていないことなどが描かれ、少しずつこの男の輪郭が見え始める。12年ほど遡ると、それ以前に刑事をしていたことも判明してくる。取調室で残酷な拷問を慣れた手つきで加えながら訊問を繰り返すシーンから、この時点ですでにヨンホの精神が荒廃していることも分かってくる。そこからさらに3年遡ると、新米刑事のヨンホが、先輩刑事の行う容疑者への激しい拷問に怯える様子が映し出される。そのように映画が過去に遡っていくたびに、ヨンホの心の軌跡が次第に鮮明になってくる。それに従って、謎であったペパーミント・キャンディーやカメラなどのもつ意味が解明されていく。映画が19年前の兵役時代まで遡って、ヨンホのその後の人生に大きな陰りを与えることになる衝撃的な出来事が明かされたとき、初めて観客は右膝の痛みの持つ意味、ヨンホのその後の人生が狂っていく理由を知ることになる。20年前、そんな人生が待っているとは知らず、写真家になることを夢見ながら、冒頭シーンと同じ場所で淡い恋心を寄せ合うヨンホとスニムを映し出して映画は幕を閉じる。この映画は、観終わった後で全てが分かるというしかけになっているのである。

この映画で特に注目したいのは、身体が語る物語性である。重大な場面に直面したときこの男には必ずといってよいほど右膝痛が起こる。瀕死のスニムを見舞った直後に襲う右膝痛。刑事として張り込みを続け、容疑者を追い損なったとき起こる右膝痛。列車でスニムを駅で見送るとき、スニムにプレゼントされたカメラを無言で返すヨンホ。列車が遠ざかるとき、突然起こる右膝痛。自分の人生を狂わせた出来事がきっかけとなってその後幾度も右膝痛が現れる。身体症状もひとつの物語を伝達する。そこには個人を越えた歴史(兵役時代に遭遇した光州事件)も埋め込まれている。破局を向かえている家族、失業、友人の裏切り、意に添わない仕事、社会に対する怒り、兵役時代に遭遇した事件・・・様々なことが非線形的に右膝痛に集約されてゆく。ヨンホが現在の日本に現れて右膝痛の原因精査を受けたとき、担当した医療者が病院内でできる血液検査、膝のX線MRIを駆使したとしてもどれだけの医療者が右膝痛の成因にたどり着けるだろうか。なぜこの男が自殺をしたかを理解できるだろうか。

医療場面

医療の現場は、この映画であれば「右膝痛」を愁訴に来院した患者との出会いから始まるといってよいだろう。映画の観客はここに至るまでの顛末を観てきているので、何故ヨンホが自殺するのか、何故右膝が痛むのかを、理解できるとは言わないまでも推測することはできる。ところが医療の現場では「右膝痛」だけをもって医療者の前に現れるのだ。このような患者を前にして、医療者はどのようにその原因を探り診断をつければよいのか。この男のここに至るまでの人生の軌跡を知らなければ、それは不可能である。この映画をとりあげたのは、この映画の手法が、医療の「語り」を通じながら患者の背景を探っていくプロセスによく似ているからである。

例えば別の例で、「胸が痛む」といって患者が来院したとしよう。まず医療者は一通り生物医学的アプローチで原因を探ろうとするだろう。急性に起こったもので重篤なものは、急性心筋梗塞肺塞栓症、緊張生気胸、解離性大動脈瘤、心タンポナーゼなどの命に関わる疾患を考慮する必要があるだろう。しかしながらそのような緊急の状況でなければ、「胸が痛む」原因は別のところにある訳で、それを探るためには患者にここに来るに至った経緯や思いを「語って」もらわなければならない。患者に語ってもらい、それを医療者が聴くことを通じて、またその内容を積み上げてゆくことによって初めて、核心に近づいてゆくことができるのである。これは患者自身が「病い」の意味を見つけてゆくプロセスでもある。

医療の現場で語られる言葉

患者の訴えがどのようなものであれ、往々にして、重篤度に関係なく客観的な裏付けを求めて検査が組まれてゆく。そこで運よく診断が下ればよいが、そうでない場合には、客観的な裏付けを求めて患者はドクターショッピングを繰り返すことになりかねない。このような科学的裏付けが得られない愁訴に対処するためには、医療そのものを患者の側にさらに引き寄せなければならない。これまでの科学的裏付けだけを求めるようなアプローチを改めて、非線形的に様々なことを考慮せざるを得ない。すなわち様々なことが複雑に絡み合って症状が惹起されたと考えて背景を重要視するということである。そこで重要になってくるのが患者に「語って」もらうということなのである。

繰り返しになるが、医療において「語り」が重要なのは、「語る」ことで「語り手」と「聴き手」がつながり、患者は自身の「病い」に意味を見いだすことができるからである。ストーリーもナラティブも‘語り’と訳されるが、厳密には大きな相違がある。ストーリーとは直線的で完結した言語構造体、ナラティブとは複雑で他者へ向けられた言語行為である。病者と医療者のかかわりは、相互の「語り」を通じて展開してゆく。ストーリーは、科学的説明では描ききれないような時間的、空間的な広がりをもって世界を描き出すが、現実の理解を一定の方向へ導き、制約もする。医療者はできるだけ科学で説明できるような診断名を付けて病態生理学的に矛盾のないストーリーを作ろうとする。一方、患者は症状や苦悩の中に人生の意味を見いだせるようなストーリーを作ろうとする。それゆえ、そのそれぞれ両者のストーリーは容易には一致できない。患者の持つストーリーを少しでもポジティブな「自己物語」に書き換えるためには、少なくとも聴く耳をもつ誰かに向かって語られなければならない。そしてストーリーとしての一貫性は現在がストーリーの結末になるように組織化されることで得られるである。

しかしながら一口に「語り」といっても、一筋縄ではいかないものである。患者自身、痛みに生物医学的以外の意味があるなどと意識してはいないことが多い。ヨンホの右膝の痛みは10年以上前から起こっている。その後何度も繰り返され、3日前に危篤状態の初恋の人を見舞ったときにも起こっている。ヨンホは医療従事者の前に立つことなく別の理由で自殺してしまうが、医療従事者のもとへ向かう多くの人々は、右膝の痛みに別の意味があるなどとは考えずに純粋に器質的なものだと考えている。生物医学的検査でわからない場合には、患者との対話を通じて新たなストーリーを創り上げてゆくが必要があるだろう。そうすることによって患者の「語り」も変化してゆく。「語り」にも段階があるのである。

「語り」

アーサー・W・フランクは語りを、「回復の語り」、「混沌の語り」、「探求の語り」の3つに分けて考察している。「回復の語り」は病気になって間もない人に多く、治癒する可能性が高いため健康を取り戻すという筋書きを具体化しやすく、幸福な結末が待ち受けているのだということを確信させる。タルコット・パーソンズの“病者役割”の理論がそれである。原因が生物医学的な説明で納得できる病者が回復の語りを好むのに対して、「混沌の語り」は聴く者の不安をかき立てるものである。『傷ついた物語の語り手』の中でフランクは次のように述べている。「身体は沈黙しているわけではない。しかし、その声ははっきりと語られていない。身体は言葉を利用するのでなく、それを生み落とすのである。身体が生み落とす言葉の中に、病いの物語が含まれている。」混沌の語りにおいては、患者自身が混沌としていて言葉によって語ることができず、聴きとりがたいものである。ヨンホが診察室を訪れたならば、混沌の物語が語られるであろうことは容易に想像がつく。聴き手が混沌を否認しても、語る者の恐怖を一層深めてゆくだけである。そうであれば私たち医療者に求められることは、混沌を人生の語りの一部分として受容する力を高めることである。

 「探求の語り」は、「混沌の語り」を新たな形に組み換えて苦しみに真っ向から立ち向かおうとするものである。それは病いを受け入れ、病いを利用しようとさえする。「探求の語り」は、病者であることの新たな在り方の追求について語る。その中には、回想・連帯・励ましが含まれる。そして「探求の語り」をすることで、生存のための闘いが始まる。フランクは、“生存者”よりも“証人”という言葉を好む。生存という概念には、生き延びるということ以外には何ら特別な責任は付随しないが、証人になるためには、起こったことを語るという責任を引き受けなければならない。証言は、それを証言するものの中に他者を巻き込むのである。「探求の語り」は、病いは旅であったのだというとらえ方をしており、病者であることの新たな在り方の追求についても語る。それは「語り」の最高段階であり、患者も医師もここを目指しているのだといっていいだろう。

暗黙に知ること

今後の医療は、生物医学的アプローチとナラティブなアプローチを融合した形で実践してゆく必要がある。だがそれを実践することは言葉にするほど簡単ではない。「暗黙に知ること」とは、言葉で説明するのは難しいけれどその行為等を繰り返すことで自分のなかで自動化されることをいう。私たちは、外部にある事物に意識を向けることによって自らの身体を自覚する。超音波専門医を例にあげよう。超音波のプローベに触診・聴診の役割を与えるとき、その行為を繰り返すという暗黙的認識によって、その専門医はそれを自らの身体に取り込み、もしくは自らの身体を延長してそれを包み込んでしまう。その結果として、その専門医はその事物を内在化するようになる。その専門医は超音波と一緒にあれば優秀な診断医ということになる。膝痛や様々な関節痛を診断するために、X線検査やMRI検査を繰り返す専門医にはそれが内在化されてゆく。現在のあらゆる専門医はこのように科学的裏付けをもたらす医療機器を内在化しながら日々鍛錬に余念がない。精神科医でさえ、画像診断を求める時代である。しかしながら、その内在化されたものは非常に狭い領域であり、その領域を外れたものに対しては全く無力である。医療者の前に現れた患者の問題を解決するために、医療者は自分の中の内在化した知識・技能・態度すべてを動員する必要がある。しかしながら、動員すべき内在化したものが狭い領域であれば、限られた患者に対してしか力が発揮できない。そのためだろうか。巷では納得する診断や解決を求めて患者が右往左往している。このような内在化した知識・技能・態度に裏付けられた「直観」は広い領域に対応できるものでなければならない。「直観」とは、内在化したものを駆使してさまざまな要素を絡み合わせて瞬間的に判断することである。患者のストーリーを訊きだし、自分のストーリーと重ね合わせて、対話しながら新たなナラティブを創造するためにはそれなりの暗黙知が要求される。実際に治療を行う場合には医療者側に相当な技量や感受性がなければ、患者の問題に対応しきれないことになる。

患者は結末から始まる映画のようなものである。患者の傍らで医療者は、患者の「まだ語られない」話や身体症状から暗黙裏に患者の病いを探らなければならないのである。そしてそこから結末にたどり着くまでは至難の道のりである。映画を観て最後に感動するほどには簡単なことではない。それは一生かかっても修得できない技・態度であるかもしれない。とは言えそこに向かって一歩踏み出すことはできる。よい映画を観るとふとそんな気にさせられる。(MARTA, 2006,vol4,no.2から一部改変し転載した)