『若い君たちに伝えたいこと』

 

2023年9月9日、札幌市清田区にある北嶺中学・高校生の中で医学部進学希望者を対象にした90分の講演を依頼された。

 

日頃受験勉強に勤しんでいる生徒たちに、受験後の生き方に参考になるよう、「専門家の知恵」という講演を行った。

 

講演者が自分の背景を聴講者に知ってもらうことで理解が深まるといわれているので、まず自己紹介と卒後6年目の地域医療活動を紹介した。

 

高校時代(空手道部、応援団長)、大学時代(入学直前に骨折、空手道部創設、自治会活動)、大学卒業後の経歴(地域病院で一般医、診療所長、離島の代診、病院破産を経験)、資格(プライマリ・ケア指導医、内科総合専門医、糖尿病指導医)、研究(臨床疫学・evidence-based Medicine、学位取得)

 

 地域の活動を次のようにまとめた。

大学での研修の帰り道のこと「空の輝きの一部は家々の灯りであった研修からの帰りが夜遅くなったとき,車の窓から空を見上げると星があちらこちらにかたまって見えた。星だと思っていた空の輝きの一部は家々の灯りであることに気付いた。4年後にこの町を去る頃には,いくつかの山頂の家の灯りから患者の顔が浮かぶようになった。」

 

 講演では、3つの誤謬(考えや知識の誤り)について話すことにした(#合成の誤謬、#マクナマラの誤謬、#技術合理性の陥穽)。

 

はじめに『#合成の誤謬』について、映画『#ダーウィンの悪夢』を紹介しながら説明した。飛行機が一機湖の上を飛んでゆく場面で映画が始まる。この映画は、輸入品に関する行政の嘘を暴いたドキュメンタリーである。飛行士は「空荷で来てナイルパーチを積んで帰る」とインタビュに応えるが、嘘ではないのか。アフリカのヴィクトリア湖は、多種多様な生物が棲むことから“ダーウィンの箱庭”と呼ばれていた。半世紀前のバケツ一杯の肉食魚・ナイルパーチの放流が、生態系を急速に破壊した。そのナイルパーチの加工輸出産業で潤うが、同時に生態系の崩壊と経済格差が生まれてしまう。映画は、ヴィクトリア湖周辺に住む貧しい人々を、さらに貧困化させる経済システムを生み出した経緯を赤裸々に描いている。欧米のビジネスマン相手に売春で稼ぐ街娼婦。安い賃金で働く加工場の夜間警備員。暴力や虐待の恐怖を忘れるため発泡スチロールを燃やした有毒ガスを吸い、路上で寝崩れる小さな子どもたち。片足がなく、松葉づえをつきながら働く子ども。年長者からの性的虐待に怯える女の子。誰もが小さな幸せを求めて生きているのに、なぜこんなに不幸が襲うのか。飛行機が運んできていた荷物がその一端を担う。映画はこう結んでいる。「クリスマスの日に、アフリカはヨーロッパの子どもにブドウをプレゼントし、ヨーロッパはアフリカに武器をお返しにプレゼントしてくれる」。中村哲氏は「武器は絶望しかもたらさない。武器に多くの金を使う帝国は没落する」と述べている。

 

「部分的には合理的で正しい行動が、全体としては間違った結果を導き出すという合成の誤謬」。ナイルパーチで稼いだお金が部族紛争の武器購入で相殺される。個々それぞれが最善を目指した結果がどうなるのか。ミクロ合理性の総和は、マクロ非合理性に帰結する。個々にとってよいことの総和は、全体にとって悲惨にある。(構造主義生物学者池田清彦氏)

 

研修制度の変更や専門医制度の新設により、医師は都市部に集中する。大学病院や市立病院に集まった多くの医師たちは目の前の患者さんのために日々忙しく立ち回る。一方、離島やへき地に医師は赴任を渋る(離島には必ず小学校教員や警察官はいるが、そこに医師が不在でも「職業選択の自由によって免罪」され、町長の責任が問われるだけである)。医師集団のギルド(排他的な同業者組合かつ公的使命)としての責任はないのか。このような日本の地域医療のマンパワー不足や医師の偏在に「合成の誤謬」が当てはまるのではないか?

 

私は20年間、「臓器専門医を50%、総合診療医を50%」を叫んできた。しかし、いまだに総合診療医希望者は2.5%にすぎない。かの有名な「#Harvard medical practice report」は、健康指標は、80%は医師が介入しても不変、10%が悪化、10%が改善、と報告している。ならば、10%の悪化事例を減らすよう研修医指導法を改善し、「初期研修終了後、10,000人全員が1年間は地域医療に従事する」ことにすれば、医師の偏在問題は解決するのではないか。(専門医機構は、臓器専門医更新時に1年間の地域医療勤務を義務化しようとしているが、大反対にあっている。30歳代後半医師が抱える師弟の教育、専門領域以外の診療への不安等で難しいのだ)。

 

私の案を支持する事例は既に存在する。NHKで放映された『こうして僕らは医師になる~沖縄県立中部病院 研修医たちの10年~』を観てみよう。当時研修医で現在立派な医師になった4人に光を当てている。この病院は米国式の初期研修で徹底した実践主義で技術を体に沁み込ませ「何でも診られる医師」を育成しその直後に離島に赴任させる。このような研修と離島などの地域医療の現場での単身実践が国民に求められる医師を培っているのだ。この番組を観ると、医師としての仕事のすばらしさを再認識できる。これこそミクロとマクロ合理性の追求ではないのか。

「若者よ、鉄は熱いうちに打て、そして、その成果が冷めないうちに社会で実践しよう!」

 

次は『#マクナマラの誤謬(The McNamara Fallacy)』を紹介した。数字にばかりこだわると物事の全体像を見失うという意味である。 ベトナム戦争の際に、天才と呼ばれた米国国防長官のロバート・マクナマラ氏はデータ分析を駆使して勝利を目指した。死者数を「ボディカウント」と呼び、米軍の死者とベトナム軍のそれが1対10になれば戦争に勝利すると一計を案じた。実際にその比率は達成されたが、周知のように米国は勝利することができなった。 なぜか。ベトナム軍兵士が死ぬと女性や子供がその穴を埋めるために従軍し、米兵の死者は少なかったが逃亡兵が膨大に膨れ上がったからである。

 

「計測できるものは計測して、計測できないものは忘れ去る。」そこから何かが零れ落ちるのだ。それが失敗の第一歩である。

現在、受験戦争で評価しているのは、IQや学力といった試験などで数値化できる認知能力(cognitive skills)である。一方、物事に対する考え方、取り組む姿勢、行動など、日常生活・社会活動に重要な影響を及ぼす非認知能力
(non-cognitive skills)は評価の片隅に追いやられている。最近、この能力は#Negative Capabilityという言葉で注目されている。詩人のJohn Keatsが母親にあてた手紙の中で使われたそうだ。「事実や理由を性急に求めず、不確かさ、未解決の状態を受けいれる能力」、「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力(モヤモヤ力)」、「共感力」である。作家で精神科医である#帚木蓬生氏が「Negative Capability」として本にまとめている。

 

若者よ、社会では数字では評価できない能力が求められるのだ。

 

最後は『#技術的合理性の陥穽』を紹介した。#ドナルド・ショーンが書いた『#専門家の知恵』(The Reflective Practitioner: How Professionals Think in Action.1983)にこのことが書かれている。ここでいう専門家(professional:神の神託を受けたもの)とは、医師だけでなく公共的使命と社会的責任を課された職業である牧師、大学教授、弁護士を指す。これまで、専門家は「技術的合理性(technical rationality)」を習得することを求められた。技術的合理性を専門家成立の根本原理としている。これには知の階層構造があり、医学の場合、基礎医学の下に応用医学が従属し、その下に従属して各領域の臨床医学が位置づけられる。それゆえ医学教育はこの順に学生に教え、臨床医学に辿り着く前に時間切れをなっていた。そのように医学教育は、理論と実践が分離していた。

もう少し詳しく見てみよう。専門職知識の構成要素は以下の4つである。1)専門分化していること、2)境界が固定していること、3)科学的であること、4)標準化されていること、である。

技術合理性を追求した暁には「技術熟達者」となれる。しかし、ショーンはそれだけでは個々の問題解決には力不足で、真の専門家になるためには、さらに「反省的実践家」にならなければならないと述べている。

技術的合理性だけで対応する専門家の例をNew England Journal of Medicineの元編集長#Groopman Jが“How doctors think”で取り上げている。

60歳代男性(著者)。10年前より、タイプを打つと右手関節が痛む。ドアに手を挟まれた既往がある。手の専門医Aを受診するとXP、MRI検査をして、「骨嚢胞」があるが診断はわからない。シーネ固定で経過観察となった。

手の専門医Bを受診すると「過活動性滑膜炎」、嚢胞穿刺と骨移植を提案された。

著名な手の専門医Cを受診すると、賞状だらけの部屋ではじめに研修医が診察し、「偽痛風」と診断された。

最後に新進気鋭の手の専門医Dを受診すると、MRIではわからないが、「手関節内の靱帯部分断裂」と診断。手術を推奨(過去に1例経験あり)された。

そして、こうまとめている。「You see what you want to see(医者は自分の見たいものしか見ていない)」。自分のもっている枠組みでしか患者に対応していないのだ(#理論負荷性)。

なぜこうなるのか。「技術的合理性」のモデルは理想的な状況でしか適合しないからである。

現実の実践には、1)複雑性、2)不確実性、3)不安定さ、4)独自性、5)価値観の葛藤が付いて回る。しかしながら技術的合理性を追求する専門家は、物事を単純化し、確実性や安定性、普遍化を求め、自分の価値観で仕事をすることを理想とする。そんな理想的な医療(患者特性、病変、医療器具、スタッフ等)は限られている。

150年前の世界的に有名な内科医#ウィリアム・オスラーは「医療とは ただの手仕事ではなくアートである。商売ではなく天職である。すなわち、頭と心を等しく働かさねばならない天職である。諸君の本来の仕事のうちで最も重要なのは水薬・粉薬を与えることではなく、強者よりも弱者へ、正しい者よりも悪しき者へ、賢い者より愚かな者へ感化を及ぼすことにある。(中略)。家庭医である諸君のもとへ 父親はその心配ごとを、母親はその秘めた悲しみを、娘はその悩みを、息子はその愚行を携えてやってくるであろう。諸君の仕事にゆうに1/3は、専門書以外の範疇に入るものである」と。

では「技術的合理性」の原理を超えたところで専門家(反省的実践家)になるにはどうしたらよいのか。ます、患者の抱える複雑で複合的な問題に直面したとき、状況との対話(conversation with situation)に基づく行為の中の省察(reflection in action)を繰り返すことが必要となる。

現在の大学病院での研修医教育を振り返ってみよう。多科ローテンションで確かに様々な疾患を学ぶことができる。しかし、循環器科で研修しているときに、胸痛を主訴に入院した患者さんが腹痛を起こせば、消化器内科へ紹介することになる。自分たち(指導医+研修医)より優れた専門医が近くに居れば当然そうなろう。消化器内科入院患者が胸痛を起こせば、同じような過程を辿るだろう。このループの中で研修医を狭い技術的実践へと閉じ込めることになる。マンパワーのある大病院では、研修医は指導医と共に「技術合理性」をもって解決にあたっても、それを超えた領域の研修をすることは難しいのである。それを補うためには、大病院とは真逆の、マンパワーが不足し、高度医療設備の限られた環境で、最低1年間くらい曖昧さを享受しながら奮闘する必要があるだろう。

ショーンの書は、医師が真の専門家になるためには、若い医師が高度医療機関だけでなく、地域病院で働くことを支持する理論を提供している。

 

最後に2つ。#中村哲氏を紹介した。はじめ精神科医・一般医として活動したが、最後はメスをシャベルカーに変えて、掘った水路(筑後川の氾濫を封じた山田堰工法を導入)でペシャワールの砂漠を緑で覆われた小麦畑に変えた。だが、2019年12月4日、アフガニスタンで銃撃され死亡された。彼は次のような言葉を残している。「人生思うようにはならない」、大切なことは「人間として心意気」、「何かの巡り合わせを大切にして求められたことをする」。

 

贈与を受けたと思いなす力(#マルセル・モースの「贈与論」)

「価値あるものをもらったと思ったら、返礼をしなければならない」ということがすべての人間社会の根幹になっている。

「これに価値がある」と思う人が出現したときにはじめて価値もまた存在し始めるのであって、それに気付かない人も多い。

医師は自分の力だけで医師免許を勝ち取ったのではない。家族・友人・国民からの支援があったことを忘れてはならない。