自治医大青春白書』

卒後45年、同窓会報に原稿執筆を依頼されたため、以下の内容を送った。

□学生時代

1972年、私は自治医科大学に一期生として入学した。一期生全員の第一志望校は自治医科大学ではない。なぜなら1970年、秋田自治大臣が「医学高等専門学校設立構想」を表明後、足早に開校が決定し、受験生には実質半年前に通知されたからである。1968,69年は大学紛争で学生旋風が吹き荒れた(大江健三郎いうところの「遅れてきた青年」という意識が私の脳裏から拭い去れなかった。1999年、札幌医科大学に赴任してみると、徒党を組んで大学解体を叫んだ経歴の人たちが教授となって権威的な教室運営をしていた。ヒトは堕落する)。1970年、大阪万国博覧会よど号ハイジャック事件、「あしたのジョー力石徹」。11月25日、三島由紀夫が割腹自殺したのを高校の昼休みに知った。1972年2月28日、某大学の受験から帰ってくると下宿のおばさんがテレビに噛り付いていた。日本赤軍あさま山荘事件である。その後、田中角栄日本列島改造論日中国交正常化、パンダ・ブーム、中東戦争後にオイル・ショックが起こった。寮では井上陽水荒井由実吉田拓郎等の歌が流れ、学生集会は「戦争を知らない子供たち」で閉会となる、そんな時代であった。

 入学3日前、レンガの上で(グランドの芝生が植えたばかりで使用不可)サッカーをしていて舟状骨を骨折した。済生会宇都宮病院の整形外科医の世話になったが、「君は今度、田舎に行って藪医者になるのか」という何気ない一言が胸に刺さった。3か月間右手にギブスをして、左手だけでする麻雀を覚えた。高校時代から続けていた空手道を続けて、大きな成果は出せなかったが立ち上げた部の主将を卒業まで続けた。自治会執行部に入り、寮長も務めた。朝になると寮一階の窓から女性がこぼれ落ちてゆく日々の中、盗難事件が起こり、バットを抱えて警備をした(寮生が犯人という噂がたったが、犯人は外部者であった。犯人は噂の寮生とそっくりだったという)。卒後の研修内容が不明であったため(県によっては卒業後すぐに僻地医療に従事して欲しいと言ってくるところもあった)、自治会が中心となって交渉し、身分は都道府県職員とする,2年間の初期研修が可能な病院で受けられる,という条件を獲得した.

□研修医時代

 私は卒業してすぐの4月,医師国家試験の合格発表のないまま,静岡県の臨時職員として県立中央病院に採用されることになった。この時代,研修医が内科を専攻した場合には,内科だけの研修を受ける。内科といってもその中は循環器,消化器,呼吸器,内分泌・代謝,腎臓,神経,血液,アレルギー膠原病感染症,などの分野に分かれている。なかには麻酔科,放射線科を研修するものもいる。しかしながら,内科の中でも一つの専門分野しか研修しないという場合も少なくなく、大学病院でははじめから特殊な専門分野だけを研修するところが大部分であった。

 私と同窓同期のN君の研修方式は多科スーパーローテイションと決った。この方式は内科,外科,産科,小児科を3~6カ月ローテーションし,それに眼科,耳鼻科,整形外科,泌尿器科,皮膚科,精神科等を1カ月ローテーションまたは午前の時間を使って外来だけの研修を受けるという内容であった。我々は僻地医療に当たらなければならないという使命を負っていたため,研修病院の中でこれまでの医師とは異質の存在で、この研修方式をするのはこの研修病院では我々が初めてであった。医療技術は何でも身につけたいという二人の希望が適えられこの方式になったのである。しかし,医師資格がないため,約2カ月間は検査室や病理部預かりとなった。

 医師国家試験合格が決まった6月,晴れて内科から病棟研修が始まった。指導医は個々に循環器,消化器,神経内科などの専門性の中で診療に当たっていたが垣根はなく,病室も混合であり,勉強会も一緒にやっていた。研修医ひとりの受持ち患者が平均8~10名であった。病棟業務の合間に将来必要となる技術,採血,血管確保,中心静脈穿刺,胃透視,胃内視鏡,下部消化管造影,血管造影,心電図,心臓超音波の読影,腰椎穿刺などを教わった。受持ち患者は不思議と重症患者が私には当たらなかった。他の研修医は京都大学で1年の研修を終えて,専門医を目指しながら内科一般を研修していた。技術研修に関しては求めるものは何でも教えてもらった。しかしながら,勉強会で発表の順番に当たると提示の仕方が皆目わからずそのテーマの本を何冊も読破しては資料を作った。N君はハリソン内科書を持ち運べるようにした手製のブックカバーを付けていつも身の回りに置いていたのでNハリソンと言われていた。私はセシル内科書を読んでいたので山本セシルと言われた。

 N君は語学の天才である。ドイツ語が話せるし読める。英語は英検1級で、ロシア語,中国語,ギリシャ語も何とか使いこなす。こんな話があった。浜松医科大学放射線科の教授がドイツ語で2巻にわたる分厚い教科書が発刊されたと医局員に話したところ,1カ月後に教授が購入したときにはN君は読み終えていたというのである。また,深夜12時ころ,病理の指導医T医師と私が飲み歩いて,病院の近くの寿司屋にフラっと入ったところN君がビールを飲んでいた。よく見ると傍らにはハリソン内科書が置かれていた。このように,とにかく,勉強時間ではN君にかなわなかった。N君に負けたくなかったので欲しい本は何万円であっても手当たり次第買った。給料はほとんど本代に消えたが,それでも酒代の分だけN君の本を買うのにはかなわなかった。読破する速さでも彼にはついていけなかったが彼の影響で、英語で本を読むことに抵抗はなくなった。N君の外国語の読み方は少し変わっていた。1頁毎にその頁の余白に日本語で要約を書くのである。1冊読み終えると,それをまとめるのである。また,彼は読んだものをまとめて漫画や図にして解説するのが上手だった。N君の作った資料はその後何年間もコピーとなって後輩に受け継がれた。同じ本を買ったときには,彼が読み終えて日本語訳した本を彼の目を盗んでよく読んだ。

 内科以外には,外科,小児科,産科,整形外科,泌尿器科,眼科,耳鼻咽喉科,皮膚科,形成外科,口腔外科をローテーションした。他の県立病院で呼吸器科を3ケ月,精神科を1カ月研修した。産科では3カ月間,N君が先にローテーションした後に,分娩と新生児ケアを研修した。そこでもN君の評判は大変良かった。他の指導医の先生は重要な処置が終わると助産婦さんに任せていたが,N君は毎回最後まで見学し,助産婦さんの代わりに分娩室をきれいに掃除して帰ったからである。私とはと言えば,私が分娩を任され,会陰切開縫合をした妊婦さんが足の痛みを訴え続けたことがあった。精神的に問題のある方かと思って対応していたら,そのうちに足が腫れ上がってきた。指導医が再縫合して事なきを得た。卵巣嚢腫帝王切開手術の執刀をさせてもらった。分娩がどのように行われるのか,合併症はどのようにして起こるのか身をもって体験できた。産科で研修するうちにメスで切開し,それを縫合することに抵抗がなくなってきた。

 小児科は3ケ月のはずであったが,予定した小児科医の赴任が遅れたため,頼まれて私は6カ月間やることになった。はじめて小児のレントゲン写真を見たとき,大人との大きさの違いに驚いてしまった。ここでは小児に対する補液の仕方,抗生物質の使い方,血管確保のためのカットダウン法を教わった。研修が終わった時にはどんな小児でも診るのが恐くなくなった。内科指導医のお子さんの簡単な病気の診察を頼まれることもあった。

 呼吸器の研修は病棟患者受持ちと気管支鏡実習であった。肺結核病棟は医者も患者ものんびりしていた。医師は週に1度くらいしか回診しないので,私が日に2回回診に行くと何か特別なことがあるのかとはじめは驚かれる患者が多かった。呼吸器の症状を訴える患者の診断をつけるために,気管に内視鏡を入れて検査をする必要がある。患者に椅子に座ってもらい,麻酔をしてから額帯鏡をつかって気管をみながら気管支鏡を挿入するのであるが,なかなかうまくならなかった。一方で,呼吸器疾患で入院した患者が心筋梗塞になったときには循環器で勉強したことを実践し,重宝がられた。

 精神科では専門の先生に1カ月間まとめて来るより,週に1回でも長期間来た方が勉強になると言われた。確かにその通りで,毎日,患者さんとバスケットやサッカーをして終わった。とはいえ,精神科診療がどのように行われているのか垣間見ることができた。外来では指導医の先生の診察を見学したとき、金使いが荒くなり,会社を起こしたり,たくさんの女性と交際したりとかなり精力的な男性が家族に付き添われて受診した。話の筋道は合っており患者のいうことに納得がいったので,単に力の余った普通の男性かと思っていたら,指導医の診断は典型的な躁病ということであった。内科とは違った意味で時間をかけて患者の話を聴いていたのが印象深い。病棟では統合失調症の患者をたくさん診させてもらった。体を丸めて一箇所をジッと見つめて動かない者もいれば,陽気に話しかけてくる者もいた。カルテを読むと彼らの妄想も様々であることがわかった。その後,この精神科入院中の患者が発熱したり,下血したりしときに診察を依頼されるようになった。

 我々がどのように研修するかについてはかなりいい加減で,直前に思いのままに指導医や我々自身で予定を変えることができる研修プログラムであった。眼科,耳鼻咽喉科,口腔外科は他の病棟研修をしながら外来で特定の曜日を決めてcommon diseasesを中心に研修した。ここでもN君の知識欲はすごかった。手帳を放さずもっており,疑問があると誰でも捕まえて聞いては一言一句のがさず書き付けていた。手帳に書ききれなくなると紙を貼って補強していた。指導医の先生も彼の前では滅多なことは言えなかった。しばらくするとマニュアル本になって研修医に出回るからである。

 宴会での活躍も目覚ましかった。我々二人は社会というものを知らなかった。最初の歓迎会で医師は全員隠し芸をしなければならないと言われ,まともに信じて学生時代の芸を披露した。N君はコマーシャル・ソングに合わせて裸でムキムキマン踊りを,私はピンクレディの曲にあわせて踊った。他の医師はただ座っているだけであった。その後,我々はあらゆる科をローテーションしたため,ほとんどの宴会に呼ばれた。ひどいときには歓迎会と送別会が1週間の間隔で行われるということもしばしばであった。噂が噂を呼び,宴会の場で芸無しでは看護婦さんたちが許してくれなかった。忘年会シーズンになると,二人の夜は「聴診器の使える太鼓持ち」であった。小児科が主催するクリスマス会では,子供たちに喜ばれた。

□研修2年目

 研修2年目は,受持ち患者への対応,医学書や住民大学関係の本の読破,住民大学の勉強会参加,富元氏の周りの人達が催す会合への参加,そして各病棟単位で開く宴会への参加など,かなり多忙であった。

 私とN君以外の同期の研修医は1年立つと専門医としての扱いを受けていた。N君はハリソン内科書を外科の教科書に代えて技術修得に努めていた。私はといえば,正義感を振りかざして,病棟研修を続けた。あるとき,指導医から単なる期外収縮の患者をカテーテルによる電気生理検査をするので受持ち医になるようにと言われた。一晩考えて,データをとるだけのための検査はしたくないという理由で,受持ち医になることを辞退した。それ以後,カテーテル検査は教えてもらえなかったが,悔いはなかった。ある医師にこう言われた。「きみの正義感はいつまで続けられるのか。君が40歳になったときには雇ってもらえる病院なんかひとつもない。40歳の君を見てみたいものだ」と。

 2年間の研修が終わろうとするとき,私より何でも知っているN君が整形外科医になると知って意外な気がした。長野,愛知,静岡の県境にある北遠地区の病院へ行くことを希望し認められた。それは誰も行きたがらない地区であった。研修中に巡り合った整形外科医の軽部冨美夫氏のいるというのがその理由であった。ただし,N君は呼吸器科研修中に麻酔事故を経験し,麻酔科研修の必要性を痛感し,さらに半年間,浜松医大で麻酔科研修をした後に赴任することになった。私は静岡県庁から内科医の不足する中西部の町立病院へ内科医と赴任するよう言われた。私は「地域医療は一人の人間に全てを負わせるやり方は時代遅れである,複数の人間が関わるシステムが必要である」と主張し拒否し続けた。また,2年間といっても内科は実質半年も研修しておらず,重症患者もほとんど経験していないということも拒否する理由のひとつであった。そこで,もう一年,内科だけを中央病院で研修させるよう交渉したが認められなかった。1980年4月,N君は一人過疎の町へ向かい,私は県庁職員と喧嘩しながら,結婚したばかりの妻と一緒に,原子力発電所に近い町へ向かった。

(その後の地域医療、義務年限後の活動について興味のある方は拙著『医療における人間学の探求』ゆみる出版を参照されたい)。