Book Review 9-10 医療 The Healer’s Art

 

『医者と患者(The Healer’s Art : A New Approach to the Doctor-Patient Relationship)』(Eric J. Cassell著)を読んでみた。著者は1928年生まれ- 2021年没。内科医。

著者は医学的技術進歩を否定するものではないが、技術に頼りすぎて、医師が技術の奴隷化していることを懸念している。技術に対して均衡する力が医学において回復されなければならない。ではどうすればよいのか?

治療する中で、heal「癒し」とcure「治療」に分けて述べている。医師は二つの別個の働きをもって、病者(sick person)に応じなければならない。まさにdisease(疾病)とillness(病い)への対応ということになろう。

本書理解の要点は、Disease: cure: 臓器を対象、illness: cure: 人間を対象、という二つの面を医療は持っているという点である。

医学教育の不備への指弾がなされる。医師は疾病に対して技術を実践するように訓練され、疾病が医師の唯一の関心であり、技術が唯一の武器なのである。ここで癒しを本来の位置に回復する必要があると説く。

入院患者についての考察では、入院患者は世界との繋がりを失う(健康な時には世界と繋がっている)。

クロード・レヴィ⁼ストロースの著作から引用して、「世界からの繋がりの喪失ととともに、病者は不滅性の感覚の喪失に苦しむ。全能感も失い、理性も役に立たなくなる。世界をコントロールすることも喪失する」と。どの文化においても、具合の悪いときには、個々の文化の信念に依拠したやり方で、癒し人(healer)に診てもらうことになる。ところが現在の医師は自らの役割を疾患の治療者とみなし、病者の癒し人としての役割を忘れている。医師の二つの働き、癒しと治療が大きく分離してしまっている。

歴史を遡ると、人類は疾患と死の停止を神に祈るしかなかった。その後、デカルト心身二元論を唱え、一切の生命は機械論的に説明可能であると言った。人間機械論である。17世紀、トーマス・シデナムは疾患の自然史を知ることと自然の治癒力の重要性を再発見した。その後、細菌学説が唱えられ、全ての疾患には細胞レベルでの構造変化が存在し、その変化は疾患に特異的であるというものに席巻された。さらに疾患には構造的および生化学的変化が存在するという説が付け加えられた。そうはいっても医療の成果を、データを用いて分析すると、過去において医療が死亡率の減少にさしたる役割を演じなかったと強調している(技術で疾病の克服だけを目的としてはならないということになる)。

医学史を貫いている三つの探求。

「何が」、「なぜ」、「われわれは何をそれに対してできるか」。「私に何がおこったのか」、「なぜそうなったのか」という問いは、一般的であると同時に極めて個人的な問いである。すなわち、病気は特殊な現象であり、客観的であるとともに個人的な側面をもち、それゆえ問いは客観的意味と個人的意味を所有している。西洋医学の歴史は、疾患過程の多くを理性の射程内に持ち込んだが、疾患図式における個人の重要性を減少させた。それゆえ、医師は疾患を治療するのではなく、疾患を持った患者を治療するのである、と意識すべきである。

著者は、以上の考察から、「医師・患者関係が重要になる」と結論している。医学は、本来、道徳的・技術的職業である。医療は過程である。医師・患者の相互作用が治療決定の基礎形成に役立っている。それなのに、医学教育(科学的分析思考)によって、病者を見る別の見方や患者についての別の考え方を排除するようになる。医師は疾患を見る視点で、病者の世界を見ている。そのため病者は完全に非人格化され、個人の独特な個性を構成する尊厳な面を剥奪している。そもそも医師は他者の人生に出入りする立場にあるので、言葉の背後にある意味を理解する必要がある。

医師は始めから「自分の知っていることを見る」傾向にある。これは哲学用語で「理論負荷性」という。「You see what you want to see」である。診断を探求する際、患者背景(社会的、心理的、個人的)は関係ないとされる。専門的技術の一般化と思い込んでいる。著者は、医師の仕事は「共感性」対「客観性」の戦いであるので、医学教育を再構築しなければならないと訴えている。

医学の最も重要な手段の一つは医師自身の人柄だそうだ。医学は人間による人間のケアに関係があるのである。

医学において人間と肉体を再統合するために、医師は本質的に道徳的な問題を、自らの職業的関心ごとの重要な一部と考えるよう、再訓練されなければならない。これは1976年の著作である。半世紀前と医学教育は変わったのだろうか?