Essay 8 家庭医を目指す君達へ(私の研修時代)

産婦人科研修中,私に分娩を任され,会陰切開縫合をした妊婦さんが足の痛みを訴え続けたことがあった.精神的に問題のある方かと思って対応していたら,そのうちに足が腫れ上がってきた.指導医が再縫合して事なきを得た.

山間の病院で。胃透視を見て,胃癌と宣告した78歳男性はあとで胃潰瘍とわかった.かつては山で木材の切出しをしていたこの患者は「やりたいことはやったので,結果はどっちでもいいよ.」と笑って許してくれた.

私は自治医科大学卒業のため,大学に研修のために残る自由がなく、卒業してすぐの4月,医師国家試験の合格発表のないまま,S県の臨時職員として研修病院に採用されることになった.研修方式は内科,外科,産科,小児科を3~6カ月ローテーションし,その後眼科,耳鼻科,整形外科,泌尿器科,皮膚科,精神科,などを1カ月ローテーションした.私は僻地医療に当たらなければならないという使命を負っていたため,研修病院の中でこれまでの医師とは異質の存在だった.この研修方式をするのはこの研修病院では私たちが初めてであった.医療技術は何でも身につけたいという希望がかなえられこの方式になったのである.

 医師国家試験合格が決まった6月,内科から病棟研修が始まった.指導医は個々に循環器,消化器,神経内科などの専門性の中で診療に当たっていたがはっきりとした垣根はなく,病室も混合であり,勉強会も一緒にやっていた.研修医ひとりの受持ち患者が平均8~10名であった.病棟業務の合間に将来必要となる技術,採血,血管確保,中心静脈穿刺,胃透視,胃内視鏡,下部消化管造影,血管造影,心電図,心臓超音波の読影,腰椎穿刺などを教わった.技術研修に関しては求めるものは何でも教えてもらった.しかしながら,同窓に先輩がいなかったのでどの様にして勉強したら良いのか皆目検討がつかなかった.勉強会で発表の順番に当たるとそのテーマの本を何冊も読破しては資料を作った.

今振り返ってみると、初期研修病院,その後の赴任病院,僻地病院を選ぶ自由もなかった.しかし,その制約以外は全く自由であった.初期研修の内容は思いのままにアレンジした.その後赴任した病院では「如何に効率よく学ぶか」,「患者にとって最良の結果が期待できるようなシステムに如何に変えるか」という研修ができた.山間の町では「住民にとって最良の結果が期待できるような医療システムに如何に変えるか」という研修ができた.「患者中心」という判断の基本とするものも獲得し得た.大学に居る人たちのように研究テーマは与えられなかったし,症例発表もする必要はなかった.その代わり解決しないと過疎,疎外,差別,羨望といった僻地の制約の中で身動きがとれなくなる問題が山積みしていた.しかし,大学にいる医局員が感じるようなストレスはなかった.大都市の病院に残るにはどうしたらよいかなどと考える必要もなかった.製薬会社と契約した治験薬を無理して使ったり無用な検査をしたりする必要もなく,患者にとって私にできる最良のやり方を選ぶことができた.衛生部長にも,大学の教授にも言いたいことを言うことができた.医師免許以外に失うものは何もなかった.「患者にとって何が最良か」と発想したとき,制約のはずの9年間が限りなく自由な日々に変わっていた.

 また,ジャズや映画,ジョギングの楽しさを知った.労さえ厭わなければ,都会まで出かけてオペラやコンサートも鑑賞できた.山間の町で暮らしたときが一番多く文化に接したときだった.幾分の努力はしたが,住むところが文化に接する障害にはならなかった.

 すぐ手に入る知識や技能はすぐ役に立たなくなる。あせらず、ゆっくりと実習・研修に励んで欲しい。最後に、家庭医を目指す君達へ、次の言葉を送りたい。

「現場で考え、そこで跳べ!」