Episode 1  研修医時代 男の条件

 

□男の条件

 この町(静岡、愛知、長野の県境に立地)で男が尊敬されるためには3つことができなければならなかった.春は鮎釣り,夏はソフトボール,冬は駅伝が盛んであった.したがって,男の条件は自ずと長距離が速いか,鮎釣りがうまいか,父親ソフトボールでホームランが打てるかであった.K先生は運動神経抜群で3拍子揃っていた.N君は特に短距離から中距離が速かった.K君も足が早く,距離が長ければ長いほど力を発揮した.また,二人とも鮎釣りとソフトボールもしたが下手の横好きであった.T君はソフトボールがうまかったが,足は速くなかった.私だけが何も取柄のない男であった.

 そうは言っても,私は父親ソフトボールに参加資格を持つ貴重な人材と見做された.地区対抗リーグ戦でシーズンになると週1~2回,夜間行われた.ユニホームとスパイクと帽子を買わされた.グローブとバットを購入し,飯田線に乗ってバッテングセンターで練習をした.メンバーが足らないときには重宝がられた.控えでないときの打順は8番で,守備は球の来ないセカンドであった.ゲームが終わるとモツ煮を囲んでの飲み会が決まりとなっていた.そうこうしているうちに,メンバーが風邪を引いたり,家族が病気になったりすると町の病院に来てくれるようになった.

 冬が近付くと駅伝の練習が始まった.我々が赴任して始めて病院でも1チーム参加することになった.N君,K君とともに私も参加することになった.20歳台は足が遅いと言っても貴重な戦力だった.この時期に若い男性患者が来ると他の駅伝チームの練習状況を聞いたり,批判したりで,診察はそっちのけであった.

 駅伝は町内ばかりか北遠地区からも多数のチームが参加する町主催の一大イベントである.北から南に約25kmを6人で走り継ぐ.N君はエース区間を,K君は最も長い区間を,私は病院の前の区間を走った.職員や患者,カメラ片手に娘を抱いた妻が沿道で応援してくれた.走り終わるとK先生宅で反省会が行われた.役場や町のチームのメンバーも参加し,遅かった,速かったと賑やかである.チームや個人のタイムを見ながら酒を飲み,マージャンをする会であった.N君は区間賞を取った.K君は少しの差で区間賞を逸した.病院の前での私の走りはあまり話題にならなかった.しばらくして,妻が撮ってくれた写真ができてきた.それには必死の形相で走っている私が後ろから来た女性走者に丁度追い抜かれる瞬間が写っていた.

 年が明けても,患者は大して増えなかった.外来はどんなにゆっくりやっても11時には終わった.K君とスポーツ・ウエアに着替えて,1時間柔軟体操をした.毎日,12時の鐘が鳴ればすぐにジョギングがはじめられるようシューズに履き代えて職員玄関で構えていた.きっかり昼休み1時間をジョギングに使った.その後,シャワーを浴びてからゆっくりと弁当を食べた.入院患者の回診を終えてもまだ3時にならなかった.眠くなって医局で自然に眠ってしまうことが多かった.4時半の終業と同時に半チャン限りのマージャンが待っていた.

 父親ソフトボールや駅伝,鮎釣りを通じて気楽に話のできる仲間ができた.病院にかかっていない男たちの名前やあだ名,誰が誰の奥さんかも覚えた.しかし,患者は増えなかった.私たちが静岡県庁に訴えた僻地医療のシステム化はこんな風に遅々として進まず,ゆっくりと1年が立った.

□僻地2年目

 山間の町に春が来ると天竜川に沿った桜並木が鮮やかになる.ダムに向かう坂道を走ると草や木の芽吹く匂いがする.鮎釣りが解禁になると川のあちらこちらに笠をかぶった釣り人を見かけるようになる.それを橋の上からいつまでも見ている人がいる.釣ったばかりの鮎を塩焼にして食べるのが釣り人の自慢である.

 2年目になって外科医としてT君が赴任し,病院は賑やかになった.名誉院長が引退され,内科も少しずつ動き始めた.細々と行っていた定期往診を内科医3人が担当し,担当する曜日と地区を分担して積極的に行うようにした.町に働きかけて人間ドックを国保病院でできるよう参加者を募ることにした.これまではほとんどドック受診者がいなかった.というのには訳があった.農協の高額預金者は名古屋で,中程度の預金者は浜松で,低額預金者が町の国保病院で行うという契約になっていたためである.はっきりと金持ちは来院しないような構造ができあがっていた.農協以外に契約している会社もなかった.天竜川上流の町に開業する医師との勉強会も始めた.

 夏に行う地区検診に腹部超音波を導入したところ,沢山の病気が見つかった.郵便や電話で町の国保病院にかかるように勧誘した.この少し前に,町の北にある診療所を任されていた医師が脳梗塞になり,第一線を退いた.町は新しい医師を捜すことはせず,国保病院の医師で引き継ぐことに決めた.名目状,私が診療所長になり,院長を除く5人で曜日毎の分担とした.午前は診療し,午後は往診とした.あるとき,死亡確認に呼ばれた.あわてて白衣も着ずに看護婦を置いて,その家に向かった.玄関から入ろうとすると,どうしたことか,勝手口へ回るように言われた.そこへ看護婦が往診鞄をもってやってきた.そこで,あらためて表玄関から家に通された.患者さんは既に亡くなっていたので,死亡宣告をして帰ってきた.どうも家族が御用聞きと間違えたらしい.それはかなり当たっていると思った.

□内科医から一般医へ

 3年目になると患者の流れが変わった.我々の院外活動が少しずつ浸透し始めたからであろうか.相変わらず南から患者は来なかったが北から患者が来るようになった.若者が車で来院するようになり,開業医からの紹介件数が増えた.外来患者も入院患者も徐々に増え始め,検査件数も増えた.人間ドックで異常が指摘された患者さんが入院するようになり,診療所で異常の見つかった患者さんも入院するようになった.

 このころには私は内科医長兼診療所長,内科循環器,糖尿病専門医,乳児検診医,病院小児科医,健康相談医,健康教室担当医,学校医の役割を果たすようになった.また,住民大学で知り合ったインフルエンザ・ワクチン接種反対で闘っているグループが尋ねてきて,反対キャンペーンのためのビデオに出演したりもした.町内住民の健康問題はどんな些細なことでも保健婦が相談に来た.病院で待つことはしなかった.保健婦の車でどこへでも行った.患者や家族が来られないことは聞かなくてもわかった.彼らは車の入らない山頂や風の荒ぶ中腹に住んでいることが多かった.意識障害を起こした患者の家族の依頼で,他の町まで出かけて行くと開業医の先生と鉢合せをすることもあった.また,枕元へ座って診察しようとすると開業医の先生が使われたばかりの注射器が転がっていることもあった.重症患者はK君,内科のT君が引き受けてくれた.K君,T君も相談が来ると風のように町内のどこへでも飛んだ.我々は頼まれたことは何でも引き受ける内科を中心とした一般医になっていた.

□山間の患者模様

 半身不随の60歳台の男性は2週間に1度の定期往診を楽しみにしていた.家族は豊橋や浜松に働きに出ていて,我々が訪問すると,テレビをつけてひとりポツンとしていた.昔話を1時間くらい聞いた.目の前の患者と話の中の昔の元気な姿がうまく重ならない.ときどき,帰り際にテレビは話しかけても答えてくれないと嘆いた.

 胃透視を見て,胃癌と宣告した78歳男性はあとで胃潰瘍とわかった.かつては山で木材の切出しをしていたこの患者は「やりたいことはやったので,結果はどっちでもいいよ.」と笑って許してくれた.

 輸血後肝炎から肝不全となり低血糖と肝性脳症による意識消失発作を繰り返す59歳の男性,発作の度に救急車で受診した.救急車は役場の職員やその側のガソリン・スタンドの職員が急きょ呼び出されて運転することになっている.息子は役場の職員であったが父親のために救急車を呼ぶことを気にしていた.数回入退院を繰り返した後,家族の希望で往診に切り換え,畳みの上で亡くなった.

 血便で入院した81歳男性は精査の結果,大腸癌であった.都市部の病院で手術をした.退院後,しばらくして意識がおかしくなり脳転移と考えたが,CTで慢性硬膜下血腫であった.これも手術で回復した.その後,胸水が溜ったときには,入院を拒否し,毎週外来で私が穿刺することを希望した.半年後に,自宅で亡くなった.

  37歳女性の喘息発作で入院した.兄が大動脈瘤で死亡した直後に実家の家業が倒産した.家では義父の暴力に耐えていた.喘息発作がひどく仕事に満足に行けずにいたら,パートタイムの仕事を解雇された.こどもと病気を抱えて山間の町からでることもできないようであった.私には傾聴するしかなかった.

 2年前から寝たきりとなり,定期往診をされていた83歳女性.段々畑の間の坂道を、往診鞄を下げて通った.寝たままの患者を運び出すには多大な労力が必要であった.1年間,往診で対応した.しかし,発熱,全身衰弱が強いため,独身で面倒をみている息子を説得し,町の消防団員を頼んでタンカで下ろし,入院させた.レントゲン写真で肺に異常影があり,肺結核と判明し,療養所へ転院となった.その後,しばらくして死亡したという連絡が届いた.もう少し便利なところに住んでいたら,もっと早く診断がついて別の結果になったかもしれない.

 心不全で往診対応した85歳男性.夫人も息子夫婦とも一家4人が私の患者だった.入院するのをいやがるため往診に山頂の家まで通った.車で20分山道を登って,道が途切れたところで車を降りた.荷物運搬用のレールは引かれていたが,人間は乗せてもらえなかった.そこで,毎回だらだらと20分歩いて登った.10kg近くある往診鞄を持つのは看護婦の役目であるが,それを持ってあげると看護婦に喜ばれた.途中にキュウイ畑があり,季節には,勝手にもいで食べた.陰嚢水腫があることがわかり,毎回陰嚢穿刺をして排液した.ときには家族の薬を届ける役目も果たした.このような往診が任期中続いた.

 肺炎で入院した88歳女性.治りが芳しくないことを家族が心配して,外出許可をとり患者を背負って連れだし,神様にお参りしていた.そのためか無事退院した.家族は「先生の御蔭です.」といって帰った.

 脳梗塞後遺症の65歳男性.記銘力の低下が著しく,糖尿病のインスリン加療を含め,24時間夫人が世話をしていた.きれいに掃除された日本建築の御宅を尋ねると,必ずお茶とお菓子や季節の果物が出た.本人は,いつも朗らかに笑って,軍隊の話をした.いつも同じ話であったが夫人と看護婦,私は落語のように聞いていた.3人ともわかっているのに毎回同じところで笑ってしまった.大変な病気を抱えているのに幸せな夫婦に思えた.この患者に会うと自分まで楽しくなるので,往診に行くのが楽しみだった.

 

 脳梗塞で半身不全麻痺の60歳の女性が退院する日に,私は保健婦と一緒に自宅を訪れた.杖を使って,車を降りて家まで歩く距離がかなりあった.玄関の敷居が麻痺の足には高過ぎた.ベッドを入れるには部屋が狭かった.料理をするときに薪を使っていた.風呂の浴槽が高かった.息子二人は料理をしたことがなかった.病院では問題にならないことが,自宅では解決しなければならない問題として山積みしていた.

 この町で,本に書かれていないことをたくさん患者さんから教わった.

 □週1度の研修

 K町から引続き週に1度浜松医大に研修に通った.私が通った教室にいる医師は、私以外は医局員か研究生になっていた.研究生になりたいと思わなかったし,なりなさいとも言われなかった.朝,8時からの教授回診は教授と助教授の横に座って聞いた.わからないことは何でも聞いた.患者に不利になると思えることは若さに任せて主治医を追及した.それを許してくれる雰囲気があった.午後は図書館で糖尿病関連の最新文献を勉強した.誰も教えてくれなくても,7年間続けると糖尿病の知識に関しては世界の最先端にいると自負できた.