Episode 2 研修医時代 空の輝きの一部は家々の灯りである

 私が医師6年目に赴任した人口6000人の山間の町は南北に長く,北の3村と南の1町が合併して町を形作っていた.北から天竜川が流れ町の途中から一方は浜松へ,もう一方は豊橋へと分かれていた.赴任した病院は3つの村のやや南に位置し,豊橋へ向かう川沿いにあった.医療施設としてこの他に,町が有床診療所と無床診療所を抱え,耳鼻科の開業医が一人いた.赴任後、病院で待っていても患者は一向に集まって来なかった.病院といっても医師が少ないため当直体制が取れず,宅直制であった.夜間に電話で呼ばれると病院に出向いた.

ある夜,発熱がひどいので往診して欲しいという依頼があった.これまで発熱くらいで往診をしたことはなかった.病院に行きたくとも車がないというので運転手と看護師と私の3人で出向くことにした.15分ほど車で行くと道が途切れた.往診鞄と太い竹竿を運転手が往診車から取り出してきた.竹竿に往診鞄を吊して私が前で運転手が後を担いで30度はあると思われる坂道を登った.これがこの町での往診スタイルだった.15分たっても着かなかった.家の灯りが見えたころには全身汗でビッショリだった.患者さんを診ようとすると冷たい飲み水とおしぼりが出された.10分ほど家の方と話をしてから患者さんを診察した.高齢の婦人であった.風邪と診断した.事前に用意してきた薬を飲むように指示した.帰り道,空を見上げると星に手が届きそうだった.

 このころ,山の中腹に住んでいた40歳男性が慢性膵炎で入院した.絶食と補液で治療すると症状は軽快したが,退院日を決めるとどういうわけか症状が悪化した.入院するまでは家に酒を届けてもらっていたが,便利にも,入院してからは病院のすぐ前の酒屋で買うことができた.入院しながら手軽に酒が飲める状況は快適であったらしい.このことを知らないのは私だけであった.退院後,彼の家に往診してみると酒ビンを担いで登るには確かに骨の折れる場所に住んでいた.

 H医大へ研修のために週に1日,車で往復4時間の道のりを通った.研修からの帰りが夜遅くなったとき,車の窓から空を見上げると星があちらこちらにかたまって見えた.しばらくしてから,星だと思っていた空の輝きの一部は家々の灯りであることに気付いた.4年後にこの町を去る頃には,いくつかの山頂の家の灯りから患者の顔が浮かぶようになった.