Book Review 16-1 木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか/木村政彦外伝

 

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』、『木村政彦外伝』(増田俊也著)を読んでみた。

同じ著者の『七帝柔道記』で、寝技柔道の凄さとその練習量のすごさに圧倒された。本書を柔道のカテゴリーに入れるつもりであったが、登場人物たちがあまりにも個性的なので、「人物」というカテゴリーでコメントすることにした。

 

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』は文庫本1,200ページ越えの大作である。はじめは柔道史(戦前からの伝説の柔道家の人生を追いかけた本, 天覧試合制覇, 最強時代, プロ柔道, 師匠を裏切る形でのブラジル遠征。エリオ・グレイシーとの戦い)、後半はプロレス史(怪物力道山の登場,プロレス界創世記の流れ)を熱く語っている。

 

読み進んでゆくと、最強の柔道家がどうして関脇留まりの相撲取りに負けてしまったのだろうという疑問を解消したくなる。試合の始まる前から、契約段階で、力道山ペースで進む。ショーとして臨む木村政彦と真剣勝負・契約無視の力道山。試合後、栄華を極める力道山と柔道界・プロレス界から見放され借金で立ち行かなくなる木村政彦。木村の窮乏を救ったのは師匠の牛島辰熊。拓大柔道部の指導者となる。拓大で木村は牛島同様に一人の青年岩釣兼生を育てる。1日のうち9時間が練習時間。人の3倍がモットー。全日本選手権を制覇。後に岩釣は「命をかけて木村先生の敵討ちをするつもりでした」と語っている(地下異種格闘技の世界王者に君臨したことを綴り、本書を終えている)。牛島辰熊木村政彦の師弟関係。それを模した木村政彦岩釣兼生の師弟関係。

木村政彦外伝』では、木村と関係のあった様々な人物と対談で、木村のすごさ・強さを熱く語っている。

 

人物

木村政彦

全日本選手権13年連続保持。天覧試合優勝も含め、15年間不敗のまま引退。史上最強の柔道家と称される。身長170 cm、体重85 kgと小兵ながら、トレーニングにより鍛え抜かれた強靭な肉体、爆発的な瞬発力、得意技である切れ味鋭い大外刈りのスピードとパワー、高専柔道で身につけた寝技技術、またこれらを支える一日10時間を越える練習量と柔道に命を賭す強靭な精神力を武器に15年間不敗を成し遂げた。絶対に勝利するために辿り着いた結論が「3倍努力」である。剛柔流空手松濤館空手の道場にも通い打撃技を習っていた。特に剛柔流空手においては、師範代を務めるほどの腕だった。立技の得意技は強烈な大外刈で、寝技ではあらゆる体勢から取ることができる腕緘であった。1950年2月、内定していた警視庁の柔道師範の話を断り、師匠の牛島辰熊が旗揚げした国際柔道協会いわゆるプロ柔道に参加。ブラジル遠征で、木村は2Rで得意の大外刈から腕緘に極め、エリオ・グレイシーの腕を折った。2009年、エリオは95歳でその生涯を終えたが、晩年には「私はただ一度、柔術の試合で敗れたことがある。その相手は日本の偉大なる柔道家木村政彦だ。彼との戦いは私にとって生涯忘れられぬ屈辱であり、同時に誇りでもある」と語っている。この言葉を境に、木村の強さが再評価されるようになった。帰国した木村はプロレスラーとして力道山タッグを組み、1954年シャープ兄弟と全国を14連戦した。試合は日本テレビNHKによって初めてテレビ中継された。しかし、このシャープ兄弟とのタッグ戦において、木村は毎回フォールを取られるなど引き立て役とされたことに不満を募らせ、朝日新聞紙上で「(力道山相手でも)真剣勝負なら負けない」と発言した。この記事に力道山は激怒して結果としてプロレス日本一をかけ「昭和の巌流島」と称して両者が戦うこととなった。だが、この戦いで木村政彦は謎のKO負けとなり一線を退くこととなる。再び柔道界に戻り、拓殖大学柔道部監督に就任。のちに全日本柔道選手権大会覇者となる岩釣兼生らを育て、1966年には全日本学生柔道優勝大会拓殖大学を優勝に導いた。

史上最強と評価されることもある山下泰裕と木村両方の全盛時代を知る日本選士権覇者は、「今、山下君が騒がれているけれど、木村の強さはあんなものじゃなかったよ」と言い、1948年全日本選手権を制し東京五輪監督も務めた松本安市は「絶対に木村が史上最強だ。人間離れした強さがあった。ヘーシンクも山下も含めて相手にならない」と語っている。

力道山

戦前、純粋で素直な韓国人が、相撲の才能を認められ、相撲界に入門。日本敗戦を契機に、人格が変貌。暴力、暴言、人権無視を押し通す。しかし、交渉力は図抜けており、そのためには一時的に嫌な人間にも頭を下げる(その後、交渉が成立すると変貌し、相手を自殺に追い込んだりもしている)。“昭和の巌流島”と呼ばれた木村と力道山との戦いで、勝利者となる。最後はヤクザに腹を刺され、死亡。木村は「力道山は俺が呪い殺した」という趣旨のコメントをした。

牛島辰熊

明治神宮大会3連覇、昭和天覧試合準優勝。「負けは死と同義」と公言していた牛島は引退後「牛島塾」を開いて天覧試合の雪辱を木村政彦に託す。1940年第3回天覧試合に向けて、木村は毎日10時間をこえる稽古を繰り返し、牛島も木村の優勝を願って毎夜水垢離をして、牛島の悲願であった天覧試合制覇がなされた。その激しい師弟愛は「師弟の鑑」と賞賛された。