Book Review 24-2歴史 #蛮社の獄

 

蛮社の獄」に関する本を四冊読んでみた。『#渡辺崋山』(ドナルド・キーン著)、『#長英逃亡』(吉村昭著)、『異才の改革者 渡辺崋山』(童門冬二著)、『妖怪といわれた男 鳥居燿蔵』((童門冬二著)である。

読書のきっかけは、NHKの「知恵泉」で渡辺崋山を取り上げていたからである。

蛮社の獄」とは、1839年天保10年)に起こった、対外政策として鎖国を続けていた江戸幕府の「異国船打払令」により、米国船モリソン号が追い返された事件が発端となって起こった弾圧事件である。天保年間(1830年代)は蘭学が盛んで、蘭方医とは別個に、兵学や科学について探求がなされた。その指導者格に、渡辺崋山高野長英、小関三英等が挙げられる。この潮流はこれまでの主流の国学者からは「蛮社」と呼ばれた。

後に「蛮社の獄」の弾圧の首謀者となったのが鳥居耀蔵である。彼は幕府の文教部門を代々司る林家の出身(三男坊)で、林家は他の学説を非主流として排除してきた。

まず『#渡辺崋山』を見てみよう。著者であるドナルド・キーンは、アメリカ合衆国出身の日本文学・日本学者、文芸評論家。コロンビア大学名誉教授。 日本文化研究の第一人者であり、日本文学の世界的権威とされる。文芸評論家としても多くの著作がある。日本文化の欧米への紹介でも数多くの業績がある。2008年文化勲章受章。

 

まず、渡辺崋山を高潔な人物として取り上げている。小説と異なり学術書なので話は淡々と進む。1793年に江戸に生まれる。これまで日本は影響を中国から受けていたが、解剖書から裂け目が生じた(中国の解剖書は全く実際と違っていたから)。このころはオランダ商館長が作成した「風説書」が情報として貴重であった。老中田沼意次の時代であり、贈収賄や官職の売買が横行し、一機、打ちこわしが頻発し、田沼意次は左遷され松平定信の「寛政の改革」に移行した。だが質素倹約が度を越えて、庶民から怨嗟の的となった。そのころの川柳では「世の中に か程うるさき ものはなし ぶんぶというて 夜もねられず」が有名。

崋山一家は困窮していた。崋山にとって画は家計を支える大事な収入源であった。初期作は日記と紀行文だそうだ。画の評価が高く、「一掃百態」が代表作。庶民それぞれの生活ぶりを表す姿態を、愛情を込めて描いている。もちろん人物画は国宝になっている。

いつの時代も優秀な人物をほっておかない。藩政改革の仕事を任される。そんな中で、西洋との出会いがあり、高野長英(「戊戌夢物語」を執筆)とも親交を深め、医学、外国の脅威についての自覚するようになる。田原藩年寄り役末席を与えられ、海沿いの藩であることから海防の拠点として対応を模索する。

このころシーボルト(外科医で眼科医)が「航海記」全4巻と伊能忠敬の地図と交換し、海外への持ち出しを図るが、嵐に会い、失敗し、追放となっている

北方については、工藤平助が「赤蝦夷風説考」を書き、ロシアの脅威を訴える。田沼意次が探検隊の派遣をして、ロシア人が蝦夷諸島の住民と交流している状況を知ることになる。林子平は「海国兵談」で近隣諸国について知らなければならないとしているが、中国、朝鮮から攻撃を受けないという楽観的な判断であった。そんな時、日本人漂流民を乗せたモリソン号(大砲は装備せず)が江戸に近づいたが、事情を知らぬ幕府は「打ち払い令」で追い返した。たまたまある新築祝いの席で崋山は西洋文明に好意的な新知識を披露し、そこに居合わせた鳥居耀蔵に脅威と不安を植え付ける。その結果、江川太郎左衛門等と処分をうけ、崋山は牢獄に収容された。そして崋山は自刃して果てた。

 

その後『長英逃亡』(吉村昭著)を読んでみた。新聞の連載で600ページを超える大作である。

高野長英シーボルトの弟子で当代一の蘭学)は、幕府の鎖国政策を批判して終身禁固の身となる。話は牢獄から始まり、逃亡への道筋が克明に語られる。小伝馬町の牢屋で五年、前途に希望を見いだせない長英(牢名主になっていた)は、牢外の下男を使って獄舎に放火させ脱獄をはかる。まず江戸市中に潜伏し、その後弟子の許などを転々とするが、幕府は威信をかけて全国に人相書と手配書をくまなく送り大捜査網をしく。その中を門人や牢内で面倒をみた侠客らに助けられ、長英は陸奥水沢に住む母との再会を果たす。その後、兵書の翻訳をしながら、米沢・伊予宇和島・広島・名古屋と転々とする。生活の糧を得るために顔を焼いてまでして医業を行う。江戸に潜伏中し、逮捕されるまで、六年四か月の逃亡であった。

逃亡ほう助といえば、#重信 房子のことを思い出す。日本の女性テロリスト、新左翼活動家。元赤軍派中央委員、日本赤軍の元最高幹部である。重信は様々な国際事件に関わる中、「ハーグ事件」への関与で国際手配を受けたが、逃亡を続け、不法に入手した偽造旅券を使って日本に不法入国し、その後しばらく関西地区に潜伏していたという。重信は3年近く、自ら他人になりすまして日本国旅券を取得し十数回にわたって中国等に出入国を繰り返し、国際的な活動を続けていた。重信が残した多数の証拠品から、会社社長・教諭・医師・病院職員が次々に重信を匿った犯人隠避の疑いで検挙されたという。その中に、数十年前に私が一緒に働いた元全学年に所属する医師がいた。彼は処分として医師免許を剥奪されたが、それでも北海道の僻地で医療補助を続け、多くの人の支援で医師免許を回復した。体制に逆らって逃亡することは、本人だけでなく確信的な信念を持った支援者が居てはじめて成り立つのであることが『長英逃亡』を読むと伝わってくる。

吉村昭といえば何といっても『#白い航跡』である(医学生・医師の必読書)。札幌医大に在籍したとき「医学史講義」で歴史的な医事を学生と一緒に調べてその意義を検討した。海軍で英国に留学した高木兼寛(慈恵医科大学創始者)と陸軍でドイツに留学した森林太郎(鴎外)との対決。脚気の原因説をめぐり、兼寛は実証主義に徹する英国医学に則る「白米食説」を引っ提げ、ドイツ医学を信奉する「細菌説」をとる東京帝国大学の代表鴎外と宿命的な対決をする。この複数の二項対立の結末がどうなるのか、結果を知っていてもワクワクする。この対決の結論がでないまま、日清・日露戦争に突入し、白米主義を貫いた陸軍は膨大な戦死者を出した(敵の砲弾で殺されたよりも脚気で死んだ兵の方が多かった)。脚気論争について、まだまだ語りたいところであるがここでは割愛する(1911年に#鈴木梅太郎が米糠中に脚気を予防する新規成分が存在することを示した世界最初の論文を発表。十数年後、ノーベル賞候補として推薦されるまでになったが受賞を妬んだ東大学派が暗躍し、海外研究者が受賞)。

 

ついでに読んだ『異才の改革者 渡辺崋山』、『妖怪といわれた男 鳥居燿蔵』は語るほどの内容ではなかった。鳥居燿蔵が妖怪といわれた所以は、耀蔵の「よう」と甲斐守の「かい」をかけたものだそうだ。一人の人生を要約して、そこから教訓を得ようとする文章には魅力を感じない。