Movie Review 2 # ドライブ・マイ・カー

 

『ドライブ・マイ・カー(濱口竜介監督)』のDVDを購入し鑑賞した。

村上春樹原作を映画化し、第74回カンヌ国際映画祭脚本賞を受賞と知ったのが鑑賞のきっかけである。DVDを購入したが、時間が取れず、先に原作を読むことになってしまった(2023年元旦に視聴)。

 

妻に先立たれた俳優が、視力障害(緑内障による視野狭窄。私も最近、緑内障の診断を受け点眼をしている。)が原因で交通事故を起こし、短期間限定で運転手を雇う(会社持ち)ことになる。運転手として雇われた女性に亡くなった妻のことを語るという物語である。『ドライブ・マイ・カー』は短編集『女のいない男たち』の中に含まれる一遍である。

村上春樹原作を読んでも、どこがいいのかピンと来ないのだが(琴線に触れない)。

 

 2022年度アカデミー賞発表前の3月に、NHK広島が制作した『ドライブ・マイ・カー 広島に導かれて』で制作舞台裏を知った(DVD視聴後)。

はじめは韓国で予定の撮影舞台が、コロナ禍の影響で広島に変更になった。広島公園の落ち葉を、撮影する劇場にスタッフが持ち込んだ等スタッフ一丸となって広島=被爆を意識した行動をしている。原爆ドームとゴミ焼却、海への導線、景観を意識した設計が、監督が舞台を広島にする大きな要因となったそうだ。

 

映画版では、亡くなった妻の秘密(原作にはない)が冒頭の30分間に明かされる。人によってはこれに嫌悪を感じるかもしれない(私もその一人、某映画通は30分で観るのをやめたという)。敢えてそうする必要があったのか。

 劇中劇は2つ。『ゴドーを待ちながら』と『ワーニャ伯父さん』。原作では車の中で主人公が『ワーニャ伯父さん』のセリフをカセットテープに入れて舞台練習をしている。

(『ゴドーを待ちながら』は原作にはない。『ゴドーを待ちながら(新訳)』を読んでみた。ホームレスらしき二人が、救世主ゴドーを待ちながら会話や遊びで暇つぶしをする。ゴドーは永遠の謎であり、今ななお無限の解釈がある。「不条理」で何を待てばいいのかわからない現代社会。今、世界各地で上演されているそうだ。ゴドーとは「神」か、と思ったら、「靴」に近いニュアンスらしい。)

 

ここで疑問が生じる。あまり魅力的ではない原作(?)を映画化したらなぜアカデミー賞の審査員に評価されたのか。

 舞台を原爆ドームが現存する広島にしたこと。劇中劇をアジアの4か国語が飛び交う多言語劇+手話に変えたこと。ドライバーに家庭内暴力精神障害に対する履歴があったこと。戦争で苦悩する人々を想起させる不条理劇「ゴドーを待ちながら」を劇中劇に入れたこと。

 これらが多様性を尊重する世界の風潮にマッチしたのではないだろうか。

原作をここまでの作品にしたこの監督には確かに才能を感じさせる。